ようこそ!このプログは,地方都市在中の私ことフルカワヒロミという腐れ外道が,これまで音楽活動等をする際に使っていた自己オフィスが有名無実化していることを嘆き,個人的な情報発信(というか,音楽を中心に好きなモノを好き勝手に語る)の場として,皆様のお目汚しを気にせず,書き殴っているものです。これを読んで同調してもらえたり,興味を示してもらえれば光栄ですが,なにせ不親切きまわりない内容ですので,更に深く調べたい方はリンク先やGoogle等の検索サイトでお願いしますm(_ _)m

はじまりのゼルダ 最初期音源集 1980-1982 Disc1/ZELDA


 平成が終わり,令和になってしまいましたが何も変わらないフルカワでございます。よく考えると前回のブログは平成最後のブログだったりもしますが,何の感慨も振り返りもなくそのまんま終わってしまったということは,フルカワにとって平成ってそういう時代だったのかなぁと思ったり。しかし,前回のブログで「ゴールデン・ウィークで10連休だ!」と書きましたが,残り3日となってしまいましたが,まぁどこに行くわけでもなくウダウダと過ごしていただけなので,まぁいいかという感じで。
 さて,前回のブログをアップした後のフルカワの日常ですが,まず,土曜日ですが,岡村ちゃんのライヴに行って来ましたです。もう最高!としかいいようがありませんでしたです。今回は割と中央付近の席だったので,ステージもまんべんなく見えたのも良かったですかねぇ。中央付近の席だったのですが,その列は全て妙齢の女性ばかりで,さてどうしたもんかなぁとライヴが始まる前は思っていたのですが,ライヴが始まってしまえば,岡村ちゃんのライヴは客席は真っ暗にしてステージからのライティングを楽しむ演出なので,周りは全く気にせず,ライヴに没頭できましたです。とはいえ,“あの娘僕がロングシュート決めたらどんな顔するだろう”で最後の「Nanananana」のコーラスのところで隣の妙齢の女性の腕振りが大きくて顔に当たりそうになったのは少し閉口してしまいましたが,妙齢の女性もライヴを楽しんでいるんだろうということで。岡村ちゃんのライヴではお布施と称して必ずグッズを買うようにしているのですが,今回はTシャツ等には触手が伸びず,どうしたもんかなぁと思いつつ,キーホルダーとボタン(大)を買わせてもらいましたです。キーホルダーはこれまでカバンに付けていましたが,今回のキーホルダーは本当に鍵をホールドするという感じでしたので,これまで長らく自宅の鍵等をまとめていた横浜八景島シーパラダイスのキーホルダーがいい加減ボロボロになっていたので別れを告げ,自宅の鍵等をまとめる用に使わせてもらうことにしましたが,これがいい感じなので,これはこれで買って良かったかと。ボタン(大)は,本当にボタンだったので,これはいったいどうやって使うのか?と若干考えましたが,ビーズ用の伸びるテグスがあったので,これで付ければいいんじゃない?ということで,まずは携帯電話に付けていたアメショー君がいい加減汚れていたので,これを取り外し,岡村ちゃんボタンを付け,愛用しているボディーバックにも付けさせてもらいましたです。
 日曜日は午前中はSHANLING M0のプレイリストをシコシコ作り,午後はパナモリで東方面海岸線コースを走らさせてもらいましたです。最高気温が19度ということで少し肌寒い感じはありましたが,寒いというほどではないので,楽しく走らせてもらいましたです。休憩はいつもの峠のコンビニでクリームパンを食べながらカフェオレを飲みながら休憩をしていると,若い兄ちゃんが灰皿のところへ車の中の灰皿の中身をぶちまけ,思いっきり周りを汚して行ったので,なんなんだこのバカは?と思いながら,自分が煙草を吸い終わった後に散らばった吸い殻を片付けていると,横で煙草を吸っていたお兄さんが「すいません。」と言いながら一緒に片付けてくれたので「いやいや,どこかのバカが汚しっぱなしにするから。ただでさえ肩身が狭いのにどうしてこんなことするかねぇ。」と言ってしまいましたです。で,食べたパンのゴミを片付けてパナモリの所へ行くと,さっき一緒に吸い殻を片付けてくれてお兄さんがバイクのそばに立っていたので「YAMAHAのTRICKERですか。いいバイクですね。」と声をかけると,お兄さんが「ありがとうございます。」と答えてくれたので,何かいい気持ちになってしまいましたです。復路はサクサク走って,この日は82キロ走らせてもらいましたです。月曜日は天気予報どおり雨でしたので,午前中はSHANLING M0のプレイリストをシコシコ作り,午後はプレオで走りに行くことにしましたです。この日は北方面峠コースを走らせてもらいましたが,なんとパナモリで走るときに利用していた休憩地点のコンビニがなくなっているではないですか。う~ん,これからどこで休憩しようかなぁとプレオを走らせながら探しましたが,これまでのコンビニよりも少し手前にもコンビニがあったので,今後はこれまでの休憩地点付近でUターンして,少し戻ったコンビニで休憩することにしましたです。この日はプレオで100キロちょっと走ったので,ガソリンを満タンにしてから,これまで1週間または100キロ点検に行っていない(というか走っていないので行けていない。)ので,100キロ走ったこともあり,タイヤ館へ行き,点検してもらいましたが,全く問題なしということで。火曜日は午前中は髪の毛がいい加減伸びていたので散髪に行き,午後は入院するときに毛玉だらけのスエットじゃぁねぇということでスエットを買いに行きましたです。まあまあ好みのスエットがあり,しかも前にファスナーが付いているということで,入院のときに着るにはぴったりじゃないですかということで,それを買わせてもらいましたです。水曜日からは天気が回復ということで,さて,水曜日から金曜日まで3日間走るか,どうするかで少し悩みましたが,嫁さんがずっと家にいるので昼ごはんを家で食べてということなると,午前中はSHANLING M0のプレイリストをシコシコ作って,パナモリで走るのは午後半日なので走ればいいじゃない!ということで3日間走ることにし,水曜日はまず久しぶりに北方面峠コースを走ることにしましたです。とはいえ,この日は子供が帰ってきていて昼ごはんが少し遅めでしたので,自宅を出発したのが午後1時45分だったので,いつもの峠のコンビニまでは行かずにその手前のコンビニを休憩地点にさせてもらいましたです。久しぶりの峠方面コースでしたが,もうレーパンに半袖ジャージで全く問題なしで楽しく走らせてもらいましたです。休憩地点のコンビニではアンパンにカフェオレで補給していると,煙草を吸っていた男性から「1日でどれくらい走るの?」と聴かれたので,「今日は少し家を出るのが遅かったので,往復で70キロ程度ですかね。」と答えると,少し驚いた顔をしながら「もちろん峠を越えてだよね。」と言われたので,「まぁそうですね。」と答えましたが,普通の人からしたら峠を越えて70キロも自転車で走るってアホなんだろうなぁと思ってしまいましたです。久しぶりの下りの峠は非常に気持ちよく走らせてもらい,この日は72キロ程度走らせてもらいましたです。木曜日は西方面海岸線コースを走らせてもらい,往復85キロ程度ということで。金曜日は3日目だし,どうかな?と思ったものの,走り出してしまえば問題なし!ということで,東方面海岸線コースを走らせてもらい,往路は向かい風が強かったものの,往路が向かい風なら復路は追い風ということで,この日も往復82キロ程度走らせてもらいましたです。
 今日は午前中はいつものように食料品等を買いに行き,帰ってからブログネタを打っていますです。プレトレのクイックレリーズレバーの固定が甘いため,なぜかロードエンドであることもあり,リア側が簡単にずれてしまうため,乗る機会が減っていたのですが,相変わらず酔った勢いでアマゾンでディオーレのクイックレリーズレバーを買ったので,ブログをアップした後,交換しようと思っていますです。プレトレをいじった後は,さすがにこの連休で300キロ以上走ったので,パナモリのチェーンのオイルがそろそろ切れてきた感があるので,パナモリの整備もしておこうかなぁと思っていますです。で,明日の天気は晴れ時々曇りで,最高気温が25度,午後の降水確率は0%なので,パナモリで走りに行こうと思っていますです,連休最終日の月曜日はくもり時々晴れで降水確率が30%なので,ちょっと微妙かな?という感じがしないでもないですが,何とか降水確率が下がってパナモリで走りにいけるといいなぁと思っていますです。

 フルカワの日常ネタはこの程度にして,今回は4月20日にいぬん堂からとうとうリリースされたZELDAの“はじまりのゼルダ 最初期音源集 1980-1982”を紹介したいと思います。ちなみに2枚組なので,一気に紹介するのも大変なので,2回に分けてということで,今回はDisc1から紹介させていただきます。いぬん堂のコメントでも「15年くらい前から,いったいいつ出るんだ?と言われ続けていたあの作品が遂に発売!1980年から1982年のメジャー・デビュー直前までのライヴを中心に構成した最初期音源集!1st EP「Ash-Lah」の3曲とソノシートの3曲も収録!これを,遅れてきた,いぬん堂20執念的銀盤にしたく思います。」と書かれているとおり,本当,出る出ると言われ続けてとうとう出たかという感じですが,ZELDAファン,また80'S Japanese New Waveファン,そして当時,地方在住の宝島少年少女だった人には(宝島ではサヨコがプチエッセイ「うめたて地より」を書いていましたしね。)にとっては待っただけの甲斐があるだけの作品になっているのではないかと思いますです。ちなみに1曲目と2曲目はジャンクコネクションから1980年10月10日にリリースされたシングル,3曲目は1980年8月24日のライヴ,4曲目から13曲目までは1980年8月31日のライヴ,14曲目と15曲目は1980年9月25日のライヴ,16曲目からラストナンバーまでは1980年11月28日のライヴで,その後,1981年2月にアスピリンレコードからソノシートとしてリリースされた音源になっています。
 1曲目の“Ash-Lah”という曲は1982年にリリースされたアルバム“ZELDA”にも入っていますが,アルバムバージョンと違ってベースラインが非常に強いです。はっきり言って音が硬質な感じでいかにも80年代ニューウェーヴな音で歌詞もパンキッシュというか,高校生だったサヨコの苛立ちがそのまま歌詞になっていて非常にプリミティブな感じです。終盤からノイジーに壊れていくところもカッコ良しです。
 2曲目の“ソナタ815”という曲は1982年にリリースされたアルバム“ZELDA”にも入っていますが,いったん録音したものをテープコラージュによってヨレヨレした感じの音にしているのですが,こんなことをしなくてもストレートに聴かせてくれても良いのでは?と思ったりもしますが,あえてこういう音にするっていう時代だったんだよなぁと思ってもみたり。
 3曲目の“Be-Pop”という曲は1982年にリリースされたアルバム“ZELDA”にも“ロボトメイア”というタイトルで入っていますが,勢いはもちろんこっちのほうがあるのですが,すでにこの時点で完成しているのは凄いなぁと思ってしまいました。途中でサヨコが歌詞を間違えてしまうのはご愛嬌ということで。
 4曲目の“とまればまたくる”という曲は,ハードなギターのカッティングで始まったと思ったら,童謡のようなメロディーでサヨコが唄い出すというこのアンマッチな感じが素晴らしいです。だいたい「とまればまたくる」っていうよく分からないメインの歌詞をタイトルにしているところが80年代アンダーグラウンドだなぁと思ってもみたり。
 5曲目の“アヴァンブラ”という曲は,動き回るベースラインで始まり,ドシャドシャしたドラムとリフを中心に弾くギターにシャウトするヴォーカルというこれも80年代ニューウェーヴだねぇと思ってしまいました。歌詞が聴き取りにくいので何を歌っているのかがよく分からないところが少し残念ですが雰囲気は十分伝わってきます。
 6曲目の“E=MC2”という曲は,ギターのリフから始まり,この曲もベースラインが強烈だなぁと思いながら聴いていると,間奏の不思議なギターソロが始まり,不思議なギターソロもそうですし,ヴォーカルの唄う不思議なメロディーラインも非常に80年代ニューウェイヴテイスト満載だなぁと思ってしまいました。
 7曲目の“Why Don't You?”という曲は,叩きつけるようなパンキッシュなリズムに乗って,これまた跳ねながら叩きつけるように唄うヴォーカルが非常にパンキッシュなナンバーになっています。
 8曲目の“Paradox”という曲は,ドタバタしたリズムに無表情なヴォーカルが格好良いです。無表情なヴォーカルなのですが,サビでは「Looking For The World!」って唄うところでは非常にエキセントリックな唄い方をしていて,そこに80年代ニューイェイヴテイストを感じてしまいましたです。
 9曲目の“つれてってよ”という曲は,揺れるベースラインにシャープなカッティングというファンクを感じさせるリズムで,こういうリズムもできるんだと思っていると途中からやっぱり縦ノリになってしまうんですね。個人的にはずっとファンクもどきなノリでも良かったのになと思いますが,パンクとファンクの合体も80年代ニューウェイヴのポイントですもんね。その辺りはよく押さえてあるなぁと思ってもみたり。
 10曲目の“White Light White Heat(カプセルベイビー)”という曲はThe Velvet Undergroundの日本語カバーですが,思いっきりパンキッシュな演奏ですが,うん,これは多分(間違いなく)LIZARDの影響を受けているなぁと思ってしまいましたです。まぁ,そもそもチホはLIZARDのバックアップもやっていましたし,その辺は仕方ないのかなぁとも思ってもみたり。
 11曲目の“密林”という曲は1982年にリリースされたアルバム“ZELDA”にも“密林伝説”というタイトルで入っていますが,変わっていないベースラインとドラムにノイジーなギターのカッティングが絡むというちょっとプリミティヴなバージョンですが,その後の“密林伝説”の原型をとどめているところが素晴らしいなぁと思ってしまいましたです。
 12曲目の“Ash-Lah(another version)”という曲は,イントロは短めにヴォーカルが始まりますが,基本的には1曲めと同じアレンジになっています。ただ,ライヴ演奏なので,演奏は粗いものの勢いはこっちのほうがありますかねぇ。特に終盤の壊れっぷりは格好良いです。
 13曲目の“灰スクール(灰色少年 original version)”という曲は,ズンドコしたドラムとベースにあっけらかんとしたギターのカッティングが絡んで,ヴォーカルの唄うメロディーはどこかポップという,これまた80年代ニューウェィヴな音だねぇと思ったり。しかし,“灰スクール”というタイトルはやはりサヨコが高校生だったからこそだなぁと思ってもみたり。
 14曲目の“Mercy”という曲は,ちょっと音が悪いのですが,ハイテンポで叩きつけてくるところは思いっきりパンキッシュです。というか,コーラスの入れ方とか,ひょっとしてP.I.Lを意識していないか?というところもあったりして。
 15曲目の“+α”という曲は,これまたストレートなパンクなナンバーで捻ったところがどこかで入るかと思いきや,最後までパンキッシュに突っ走ってくれていて非常に気持ち良いです。というか,この曲からは「暗黒ZELDA」なんて言葉は思い浮かばないなぁと思ってしまいましたです。
 16曲目の“マッチングシュール”という曲は,不思議なベースラインに全体的にリバーブかけまくり音はちょっとモコモコして聴きにくいのですが,かなりエキセントリックなメロディーとヴォーカルはまさしく80年代ニューウェイヴだなぁと思ってしまいましたです。間奏で吹かれるフリーキーなサックスもカッコ良しです。
 17曲目の“Mackintosh-Popout”という曲は,テクノっぽい無機質なベースラインがカッコいいねぇと思っていると,素っ頓狂なメロディーラインを唄うヴォーカルが非常にマッチしています。キーボードはもちろん入っていないのですが,テクノポップを意識しているのかなぁと思ってもみたり。
 ラストナンバーの“灰色少年”という曲は,13曲目ではあっけらかんとした感じでしたが,かなりダークな雰囲気になっています。しかし,演奏はダークになっているにもかかわらずメロディーは若干ポップに,そしてパンキッシュに変化しています。そういう意味ではいい感じでバージョンアップしているなぁと思ってしまいました。
 しかし,メジャーデビュー盤の“ZELDA”とそんなに遜色ない演奏だと思うのですが,プロデュースしたモモヨが自分の曲(“エスケイプ”と“月光飛翔(ムーンライト・フライト)”)を演奏させたり,ベースをワカに弾かせたりしていて,この音を聴いてみるとなんだかなぁと思ったりもしました。このままのZELDAをうまくパッケージできていれば,それはそれで凄いアルバムになったのではないかと思ったりもするのですが。まぁ,こうやって,オーバープロデュースされていない素のままの初期ZELDAの音を聴くことができたので,それはそれで良いということにしましょうかね。

 ところで,平成から令和になったその日,遠藤ミチロウオフィスが,遠藤ミチロウ(以下,愛を込めて「ミチロウ」と呼ばさせていただきます。)が4月25日に亡くなったことをツイッターで発表しました。ミチロウが膵臓癌で闘病生活を送っていることは知っていましたが,こんなに早く亡くなってしまうだなんて。とはいえ,68歳ですから,早いというほどでもないかなぁと思いつつ,あんなに元気で唄っていたミチロウが亡くなってしまうのはちょっと信じられれませんでした。葬儀は本人の意向により近親者のみで執り行い,後日、音楽葬を行う予定ということですが,パンクな音楽葬になるんだろうなぁと思っていますです。
 私がパンクにのめり込んだのはミチロウのおかげです。まだインターネットがない時代,地方都市で情報を得るためにはRockin'OnやDOLLや宝島だといった雑誌で情報を入手するしかありませんでした。それらの雑誌でミチロウは輝いていました。自主制作盤(インディーズなんて言葉はなかった。)で2000枚売り切ったという記事を14歳の頃に読んだとき,メジャーでなくても,自分たちのやりたいやり方で音楽を伝えることができるんだということを教えてもらいました。雑誌のインタビューでよく「戦略が大事なんだ。」と語っていたミチロウ。全て影響を受けさせていただきました。名盤“STOP JAP”リリース後のSTOP JAP TOURで1982年7月末に私が住んでいる地方都市にも来てくれて,15際の私はTHE STALINのライヴを思いっきり堪能させてもらいました。自己肯定するだけが表現ではないということを教えてくれたのはミチロウでした。そして,バンドサウンドじゃなくてもパンクであることを教えてくれたのもミチロウでした。私が50歳を過ぎてもちっとも大人に慣れず,相変わらずパンクを聴いているような人間なのもミチロウのおかげです。ひょっとして改元初日に訃報を発表したのは得意の戦略ですか?
 いろいろ思いが頭の中をよぎりますが,ミチロウの戦略にまんまと載せられた感じはあるけれど,載せられたおかげでこんなにゴキゲンな音楽を死ぬまで愛することができそうです。ミチロウに代わるアーティストは出てこないと思うけど,残された音源をいつまでも愛聴させてもらいます。私も60歳を過ぎても生き方としてのパンクを貫きたいと思っています。ミチロウ,本当に38年間ありがとう。